No.382  2004年1月号
 先生は去る十月十一日、七十六年の生涯をもって急逝されました
そのご功績を偲びご遺志をついでいこうと存じます。
 
若き日の田阪先生

1927年呉市生まれ。
海軍兵学校(76期)二号生徒で敗戦。
京都府立医大卒、宇治市にてセツルメント活動。
広島大学医局へ入局。
1995年、多くの人の献身の中で福島診療所設立。
その診療活動に取り組む。
安佐医療生協(元広島医療生協)安佐診療所所長に赴任。
1976年、福島生協病院院長就任。
1988年同名誉院長に就任。

 田阪先生が福島診療所に赴任された当時の福島地域の生活環境は狭い住宅が密集し、生活排水も溝に流す状態でした。こうした中で伝染病や肺結核等が慢性化していました。
 田阪先生は、社会保障の確立していない中で、日夜を問わず往診などを行ない病気を克服するための取り組みを行いました。
 民主的な病院に労働組合がない状況では地域に責任がもてないとして労働組合を結成し初代の委員長に就任しました。このことが福島地域内の企業で働く労働者に勇気を与え、地域の中に労働組合をつくるきっかけとなりました。
 医療活動を通じて、地域住民の要求や願いを実現するために先頭に立つとともに部落問題解決と取り組みを行なってこられました。
 診療室に入ると田阪先生が「さっき、いつも酒を呑んで来ては困らせるのが、肉を持ってきた。みんなで食べてくれ」と無造作につつまれた新聞に目をやりながら「呑まにゃええ男じゃがのう」とつぶやかれた。
 病院が建設された頃のようなひどい状態ではなくなったが、八十年代に入ってもまだ酒を呑んで来ては、病院を困らせる名物男が何人もいた。大声でわめき、怒鳴られて震い上がる看護婦さん、おびえて青くなる患者さんたち、でも先生は酔っぱらいたちに慕われていた。
 差別され、貧しい無医町だったこの地での医療、遅れをいっぱい抱えた住民に、先生の注ぐ温かさ、それは別格だった。
 お通也の時、隣に座った池田千代子さんが「田阪先生は町葬にしたい人よね」と涙を拭われた。
 1957年の冬、大流行したアジアかぜは、できて2年余りの福島診療所を非常事態に追い込んだ。医師は中本所長と大学から午後のパート田阪先生だけ、患者数は二百人余、往診も六十軒に及んだ。
 午後出勤してきた田阪先生は、すぐに中古のスクーターに飛び乗って、夜十時まで続く往診に出かけた。三十軒も終わった頃だろう、前の道路からスクーターに跨ったまま診療所に向かって大声で呼びかけるのだった。「注射器をくださーい」。準備しておいた数十本の皮下注射器とばらのアンプルを渡すと、それを上着の両ポケットに突っこんで、また暮ゆくバラックの路地に消えていった。
 二十九歳、夢多い青年の日であった。
 
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